第 四 章



一  節

 神は前に『生めよ、ふえよ、地に満ちよ』と言いたまいました。以前の祝福は今でも力があります。罪のために人間はそれを失ったことはありません。今でも神は人間にこの幸福を与えたまいます。実にそれによって神の恵みがわかります。けれどもエバがその子を産みました時に、罪ののろいの苦しみを経験しました。格別にその時に罪の恐ろしきことがわかりました。けれどもその時にエバは心のうちに神の約束を覚えて深くそれを慕いました。『わたしはしゅによって、ひとりの人を得た』と。英語にては I have got the man とあります。すなわち自分はかねて待ち望んでいたあの人を得たという意味です。神が約束したまいしごとく女のすえはサタンの首を砕く約束があります。そうですからエバはいま救いぬしを得たりと信じます。これは大いなる間違いでした。けれどもそれによってエバの心の中にただ救い主のきたることを待ち望みし望みのありましたことを示します。心の中にそういう幸いなる望みをたえず抱いておりましたことがわかります。


二  節

 その父なるアダムに従ってカインは土を耕す者でありました。アベルは羊をう者でありました。そうですから格別にカインは罪のためののろいを感じましたでしょう。汗を流して土を耕さねばなりません。心を労して幾分か土より食事を得ました。その労のために必ず罪の恐ろしき結果が分かりました。けれどもカインはそれを感じませんでした。


三、四 節

 二人とも同じところにおいて神を拝します。また二人ともたぶん一定の時に神を拝します。また二人とも献げ物をもって神を拝します。そうですから表面うわべでは区別を見ません。けれども神の前にその区別は大いなるものであります。またその区別によって、一人は神の子、一人はサタンの子であるとわかりました。

 アベルは神の教えに従って血を流します。それは如何なる意味ですかならば、自分は亡ぶべき罪人つみびとであると承知して、神に近づきます。アベルは自分の罪を感じて、神より離れたることを感じて献げ物を捧げます。けれどもカインはそうではありません。カインは神の教えたもうたみちを取りません。ただ土より出ずる果実を持ちきたって神に献げました。アベルは罪人として神に献げました。アベルは罪人として神に近づきました。ルカ福音書十八章十〜十三節をご覧なさい。これはちょうどアベルとカインの精神でした。パリサイびとは自分の手のわざ、自分の行為をもって神に近づかんといたしました。税吏みつぎとりは自分の罪人たる有様を感じて神に近づきました。アベルはそのように自分の受けるべき報いは死であるとうけがいました。またそれによってアベルは神の約束を信ずることを示しました。神は犠牲いけにえを献げることを教えたまいました時に、幾分かきたるべきあがなぬしのことを悟らせたまいました。アベルはその約束を信じて犠牲を献げました。

 カインの宗教はそういう宗教ではありません。カインの宗教は人間の宗教でした。人間の良心、人間の思想に従う宗教でした。いま人間に造られたる宗教の有様を見ますならば、ちょうどカインの宗教のごとくです。その宗教の目的はできるだけ道徳を実践してそれを神に捧げんといたします。けれどもそのような手のわざをもって神に近づくことはできません。人間は血をもって神に近づかなければなりません。

 レビ記一章燔祭はんさいのことです。二章素祭そさいのことです。燔祭は血を流すところの祭です。素祭は産物を捧げるところの祭です。またいつでもこの二つは一緒に捧げます。血をも産物をも神に捧げます。その意味は何でありますかならば、血によって神に近づくことを得たる者は、その行いをも神に捧げてその行いをきよめられねばなりません。カインの間違いは何でありますかならば、その手のわざを献げました。けれども少しも血を献げません。自分の罪人つみびとたることを少しも示しません。

 罪人つみびとは自分の力で再度神に近づくことはできません。永遠に幸福を失っているべきものです。けれども四章の始めにおいて、自分が罪人であることを認めて主の流したまいし血によって近づきますならば、そのために再度神を喜ばし、神と和らぐことを学びます。

 カインも恵みを求めました。そのために神にこの供え物を献げました。けれども恵みを求める仕方によって、自分の心を示しました。たぶん信者は誰でも恵みを求めます。なおなお神の愛を感じとうございます。けれども恵みを求める方法によって、自分の心と自分の心霊上の有様を示します。あるいは砕けたる心をもってそれを求めますか。あるいは自己をたのんでそれを求めますか。もし神のみちを取ってそれを求めませんならば、その恵みを求めることでも罪となります。カインは恵みを求めました。けれども神は少しもカインの祈りを受け入れたまいません。カインの祈りも罪でした。彼はエデンのそのることを自然のことと思いました。彼は罪ののろいのために神の幸いを失いましたことを忘れました。

 アベルはそれを覚えました。彼はもはや神の幸いを失いました。もはや神ののろいを得ました。それがわかりました。この世の乱れておる有様を感じて、砕けたる心をもって神の前に出ます。それは太古のことですから私共はそれを忘れても構わぬでしょうか。いいえ、そうではありません。私共もアベルの心をもって神に近づかねばなりません。詛われた乱れたるこの世の有様を考えて、神の幸いを失ったことを考えて、自己をひくくして神に近づかねばなりません。今の有様を自然と思いますならば、カインのごとく神に近づきて神の恵みを求めましょう。

 そうですからカインは土よりいずを携え来ました。けれども罪ののろいのためにそれは全きものではありません。カインはエデンのそのの果を神に献げましたならば、あるいはよろしかったかも知れません。けれども詛われた果を献げましたから、それによって神の怒りと詛いを忘れましたることを示します。アベルは羊を殺してそれを献げました。その時に死ぬることは新しきことです。その時までそういうことはありません。血を流すことはありません。その時に人間は肉を食べませんから、けものを殺すことはひどいことであると思いましたでしょう。それによってアベルは自分の罪の恐ろしきことを感じました。こういうひどいことによりませんならば、神と和らぐことができませんから、なおなお強く自分の罪の恐ろしきことを感じました。また神と離れることの恐ろしきことを感じました。けれどもアベルはほんとうに信仰をもって、この供え物を献げましたでしょう。神に教えられて、神の約束を信じて、血を流しましたから、それによってなおなお神に近づき、神の和らぎのあかしを頂戴しました。

 ヘブル書十一章四節をご覧なさい。神はアベルにそのあかしを与えたまいました。神はアベルとその供え物を喜ぶことを証したまいました。けれどもカインとその供え物を顧みたまいませんでした。私共は神が自分を顧みたまいましたか、あるいは顧みたまいませんかを知るはずです。神は曖昧に私共を祈らしめたまいません。その祈りに応えてそれを顧みたまいましたか、あるいは顧みたまいませんかを示したまいます。神が顧みたもうことの証がありませんならば、畏れなさい。あるいはカインの祈りのごとくであるかも知れません。すなわち砕けざる心をもって神に供え物を献げているかも知れません。

 カインはアベルの喜びを見、また自分の恵みを受けざる有様を見て、悔い改めましたか。自分の心をひくうして、アベルにその恵みを受ける道を教えてもらいましたか。いいえ、そうではありません。彼は悔い改めません。かえって嫉みを起こします。私共はほかの兄弟の恵みを受けることを見ましたならば、自分の心の中にどういう感情が起こりますか、自分の心の中に自己を卑くしてその恵みを慕う思想が起こりますか。あるいは自分もその恵みを受けませんでもよろしい、ただその兄弟について嫉みが起こりますか。そういう心がありますならば、カインの心と同じことです。人殺しに行くみちです。

 『カインは大いに憤って』。使徒行伝七章五十四節五十七節をご覧なさい。この人々はステパノは神の恵みと神の栄光を得たることを見ました。そのために悔い改めるはずです。けれどもそのために悔い改めません。なおなお心の中に嫉みを起こします。怒りてステパノに向かいます。これは創世記三章十五節の言葉の通りです。なんじすえおんなすえの間に怨恨うらみを置かん。これはその恨みです。カインはいま心の中にその恨みを経験しました。その後に世にける者はいつでも神の子に対して恨みを抱きます。そうですから迫害が起こります。


六  節

 ヱホバはご自分をあらわしたまいました。ちょうど三章八節にアダムとエバが罪を犯しましたときに、神がご自分を顕して彼らに語りたまいましたごとくに、今カインが罪を犯しましたときに、神はご自分を顕したまいました。これは何のためでしょうか、なおなおカインをのろわんがためでしょうか。そうあるべきはずです。けれどもそうではありません。ここに神の忍耐を見ます。いま神は愛をもってカインを戒めたまいます。漸次自分のみちを歩み、漸次亡びにくカインを追い求めたまいます。そうしてできるだけ愛をもって罪人つみびとを悔い改めしめとうあります。そうですから愛の諫言があります。神は柔和にカインと争いたまいます。カインは自己をひくくして神に祈りません。いま神は自己を卑くしてカインを追い求めたまいます。

 『なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口かどぐちに待ち伏せています』。(六、七節

 ヘブル語に罪と罪のための献げ物と同じ言葉です。その献げ物は全く神の前に罪となりますから、同じ言葉を使います。罪が門口かどぐちに待ち伏せるとは、罪祭ざいさいが門口に伏すと同じ意味ですと思います。あなたが罪を犯しましたならば、あなたは罪祭を献げることができます(レビ記四章)。門口に伏すとはきわめて近くにあることを示します。

 『それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません』。あなたは弟の頭ですから、そんなに怒るはずはありません。必ず弟はなんじに従うという意味です。神は実に愛をもって柔和をもってカインをなだめとうあります。神は私共が罪を犯しましたときに、柔和の心をもって私共を導きたまいとうあります。耳がありますならば聞こえます。ちょうどこのようにユダが亡びに走りました時に、しゅは力を尽くして彼を救いたまいとうありました。終わりに至るまで望みを失わずして、彼を愛したまいました(ヨハネ十三章一節)。終わりに至るまでこの人を悔い改めしめんがために愛を示したまいました(ヨハネ十三章二十七節)。これは愛の印でした。これをもってついにユダの心を砕かんとしたまいました。けれども彼は神の愛をことわりました。またほかの罪よりもこの愛を拒むことはひどい罪であります。そのために罪人つみびとは亡びます。神の愛をことわるために罪人は亡びます。

 以前にカインはサタンのすえであると申しました。ヨハネ一書三章十二節をご覧なさい。「彼はしき者から出て、その兄弟を殺した』。詩篇十篇を見ますれば、カインの心を見ます。


八  節

 そうですから怒りは漸次実を結びて人殺しとなりました。ここに三つの階段を見ます。

 第一、罪ののろいと罪の恐ろしきことを感じませずして祈ります。
 第二、兄弟を嫉み、兄弟を怒ります。
 第三、人殺しをします。

 このように罪は漸次強くなります。私共は罪の萌芽を恐れてそれに離れねばなりません。またカインの罪の根は砕かれざる心でした。自分は罪人つみびとであることを感ぜぬことでした。


九  節

 神はそれを探すためにくだりたまいます。三章の話を見ますれば、たいがい同じことです。三章九節の問いは、あなたはどこにいるのか。本節の問いは、なんじの弟アベルはどこにいますか。神は私共のことを探るためにこのことを尋ねたまいます。第一、あなたはどこにいますか。神とともに歩みおりますか。光のうちに歩みおりますか。あるいは神を離れて自己のむねを行なっておりますか。第二、あなたの兄弟は何処いずこにいますか。兄弟も救いを得ましたか。兄弟も神と共に歩みておりますか。あなたは兄弟に対して責任があります。自分は神とともに歩んでいましても、兄弟が神を離れて放蕩していますならば、あなたの過失です。

 カインの答えは何でありますかならば、『知りません。わたしが弟の番人でしょうか』。彼は少しも責任を感じません。無責任の答えをいたします。私共はこのように兄弟に対して、無責任なる感を抱きますならば、大いなる罪です。あなたは兄弟に対してどういう心がありますか。ローマ書一章十四節をご覧なさい。パウロはその責任をよくわかりました。本当の伝道師はその責任を深く感じます。ヨハネ福音書一章四十一節をご覧なさい。アンデレはその責任をわかりました。

 神は何のためにカインにあなたの弟は何処いずこにいるのかと尋ねたまいますか。それはカインを悔い改めに導かんためでした。その時にカインは砕けたる心をもって懺悔しましたならば、神はその罪を赦したまいましたと思います。神はカインの心を探り、懺悔の機会を与えたまいました。罪を懺悔することは心の苦しみです。生来の心にかなわぬことです。けれども神は懺悔の機会を与えたもうことは実に恵みです。神はすぐにその罪をさばくはずです。けれどもそれを赦さんがために、懺悔の機会を与えたまいます。どうぞ懺悔の機会を失いませぬよう注意しなさい。神が懺悔の機会を与えたもう間に、早くその罪を懺悔しなさい。必ず神はその罪を判断したもう時が参ります。詩篇九篇十二節をご覧なさい。神はこのように必ず罪を判断したまいます。カインが自分の罪を懺悔しませぬから神は審判さばきを告げたまいます。


十  節

 神はそれを見聞きしたまいました。神はその罪をさばきたまいませんならば、公平なる神ではありません。今でもその血は地より我に叫べり。そうですから是非その声を聴いて、罪人つみびとを審判したまわねばなりません。

 ヘブル書十二章二十四節をご覧なさい。そうですからしゅの血の声があります。アベルの血の声がありましても審判さばきを願いました。罪人つみびとさばくことを願いました。主の血も声があります。これは罪人を恵むことを祈ります。これは実に幸いです。神はアベルの血の声のために、カインを審きたまいましたように、いま主の血の声のために罪人を救いたまいます。罪人を恵みたまいます。罪人は主を殺しました。主の血を流しました。けれどもまた血の声のために、神は罪人をご自分に近づかしめたまいます。

 今日実に罪の恐ろしきことを学びました。また頑固かたくななる心は漸次恐ろしき罪を犯すことがわかりました。頑固なる心は神の恵みと愛を受け入れませんから、亡びにきます。またそれと同時に神の忍耐と愛を学びました。神は如何にして罪人つみびとを取り扱いたまいますかを学びました。どうぞこの数節を深く味わって神の聖声みこえを悟りとうございます。



© 創造と堕落   ¥150
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明治36年3月2日 初版発行

講述者 ビ・エフ・バックストン
発行人 落  田  健  二
印刷所 松 沢 印 刷 株 式 会 社
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発行所 バツクストン記念霊交会
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